映画監督安藤桃子の連載エッセイ「芽花立ち」vol.3


映画監督。1982年生まれ。監督・脚本作品『カケラ』でデビュー。
著書に長編小説『0.5ミリ』(幻冬舎)。同作を映画化し、2014年全国公開。
国内外で数多くの賞を獲得した。現在、高知に移住。映画館キネマM代表。一児の母。

音の國

 日本語で脚本や小説を執筆していると、改めて思うことがある。
 なんて美しい言語なのだろうと。そして言わずもがな、ややこしくもある。

 英国に8年住んでいたこともあり、自作の映画に字幕をつける際、いつも翻訳家の方の作業に立ち会わせていただくのだが、これが悩ましくも楽しい時間だ。日本語にある微妙なニュアンスが、英語になると直球の表現しか存在しないというのはもちろんだが、それ以上に文化を翻訳することの難しさと面白さといったらない。例えば、「ダサい」が一周回って「かっこいい」になる感覚を表現するには、その国のダサいとかっこいいを知らなければならないし、作品によっては歴史的な背景も、現代の流行も、双方の国の文化をまるっと理解しなければ良い翻訳はできないのだ。映画は「画」がある分、文化的背景が解りやすいが、文学となれば更に難解である。

 「深夜0時過ぎ、ピンヒールの女が立ち食いそばを啜(すす)っている」というくだりを読んで、「孤独」や、「哀愁」を感じるのは日本人独特の感覚ではないだろうか。西洋人からすれば、「深夜0時過ぎ、ピンヒールの女がハンバーガーを食べている」ようなもんで、腹の空いたビジネスウーマンが単純に飯を食べているだけになる。翻訳とは文化を訳する仕事なのだ。そして文化の違いはその言語の音の響きにあるのだと思っている。

 日本人は自然界の音を左脳で受信する希有(けう)な民族で、その鍵は音にあるのだという。それは、川のせせらぎ、波の音、鳥のさえずり、木立を揺らす風の音、大地の声を直訳できる民族だということを意味している。裏を返せば、日本人は自然界の言語で会話しているとも言える。50音の母音、「あいうえお」の順番がもともと「あえいおう」や「あおうえい」だったと言語学者の方に聞いたことがある。これを言い比べてみると、「あえいおう」や「あおうえい」のほうが音の切れ目がなく、単純に気持ちがよい。自然界の音も連続的で切れ目がないことを思うと、自然発生音で成る大和ことばを探求することで花鳥風月と会話が出来るかも、なんて空想してしまう。「そよそよ」「しんしん」などの、オノマトペ、擬音なんかも日本特有のものではないか。無音の雪景色において、雪の降る音を表現する我々の情緒こそが、思考そのものなのだと思う。

 言霊とよく言うが、昨今我々は、発する言葉に魂を乗せられているだろうか。日々無意識に発している日本語の音に、調和の答えが在るのかも知れないと、文字を綴りながら「きゅん」と、胸を熱くさせている。